プロフェッショナルであること

f:id:mocchi1919:20170412235953j:plain

何年も前のある日、とあるイラストを発注することになった僕は、 本当の締め切りの2週間前の日付をデッドラインとして伝え、 1ヶ月の作業期間を渡した。

 

時が経つのは早いもので、あっという間に締め切り当日。
「きっと完成していないだろうなぁ……」
心の中でそうつぶやきながら向かった先のモニターには、 "自分の目からは"完成しているように見られるイラストが映っていた。

 

感謝とお詫びに興奮が混ざった状態でお礼を述べるも、 晴れない表情で未完成であることが告げられる。

それでは…と、現時点の成果物を受け取った上で期日を2日伸ばし、2回目の締め切りの日を迎える。やはり満足が行かない様子。さらに2日伸ばし、3回目の締め切りの日。さらに3日伸ばす。

 

何をもって「完成」とするかは、とても難しい。
時間をかけた分だけ品質は上がる。 ただし「10%のものを80%にする作業時間」と、「80%のものを81%にする作業時間」では圧倒的に後者のほうが長く、 多くの場合、時間は有限だ。そして時間が有限である以上、妥協は必要なのだ。

 

4回目の締め切りは設けず、完成品として納品してもらった。
そして、ふと疑問が生まれる。以前受け取った仮版と何が違うのだろうか。
差分を確認したところ、前髪のごく一部のハネ方が、 右ハネから左ハネに変わっていたことが分かった。

たったこれだけの変更にこんなに時間を使ったのかよ……
この程度で何が変わるっていうんだよ……
これが当時の率直な感想だった。

 

月日は流れ、そんな気持ちをすっかり忘れてしまったつい先日のこと。
とある人が悪気なく発した言葉に、僕はハッとした。

「もうこれでよくないですか? こんなことにこだわって、本当に意味があるんですか?」

 

僕は今、文章を書いたり、言葉を発していくことでご飯を食べている。
言葉が持っている微妙なニュアンスや意味の違いを大事にして、澱みなく相手の意図をくみ取り、その意図を多くの人たちに正しく伝えることに腐心している。だからこそ、何も知らない人には些末だと思えることにこだわっているのだ。

しかし、そのこだわりは、本当にすべて必要なものだろうか。
プロフェッショナルへの階段は長く、未だ険しい。